大村はま研究

 大村はま記念国語教育の会 研究大会のこれまで

第1回  大村はま記念の会  平成17年8月10日
第2回  山形大会        18年6月22,23日
第3回  諏訪大会        19年10月20日
第4回  東京大会        20年11月16日
第5回  鳴門大会        21年8月19日
第6回  埼玉大会        22年11月13日
第7回  福岡大会        23年11月23日
第8回  千葉大会        24年12月1日
第9回  鳥取大会        25年10月12日
第10回 秋田大会        25年11月23日
第11回 横浜大会        26年12月6日
第12回 岩手大会        27年8月2日

 

大村はま研究の一端 ―本会会報「はまかぜ」より―

会報「はまかぜ」は、大村はま研究、単元学習実践研究に関する論考やエッセイなどを掲載しています。その一部をご紹介します。

 

大村はま単元学習について

倉澤 栄吉

講演記録「大村はま単元学習について」
大村はま国語教室の会会報「はまゆう」第八号(1983年3月10日発行)より

「新しい日本の国語教育は、大村教室から生まれた。国語教育の黎明は、大村教室とともにはじまり、明るさを加えていった。そして今日に及んでいる。単元学習が明るさの中核であることは言うまでもない。単元学習の歩みを大村はまの実践に即して語っていくと、戦後の国語教育史の大部分をうずめることになる。」
大村全集の第一巻の解説を受けもたせていただいたとき、その文章の冒頭をこの文章から始めたのであります。大村単元学習を語るということは、まさに今日の国語教育を、未来に向けて過去を顧みて語ることで、それは三十分ではいくらなんでも少なすぎる(笑い)。その一部について触れるわけですけれども、もし短いことばでまとめて言えば、一種の「未来志向―未来をめざす学習」であって、終末がないといえる。単元学習には終末がない。こういう特色をまず挙げることができます。同時にまた、子ども達は未来の方に向いている存在ですから、未来の世界というものには、出来・不出来、ギャップの世界はなく、みな平等です。学習においてそういう未来をつくるということが、落ちこぼしをつくらない、あるいは優劣のかなたへ導くということではないか。結果主義にこだわって、「効果があった」とか「できた」とかいったようなレベルで考えていたんじゃあ、単元の本質を見損なうと思うんです。ですから、きょうの授業について言うならば、大村単元に片足をかけたのであって、まだ未来があると私は考えたいと思うんです。これだけやったから、これだけの成果があった、やれ安心だ、てなものは単元学習じゃあない。生徒と一緒に教師は伸びるんだということ、伸びなければ教師ではない、ということは大村先生がしばしばおっしゃることばであります。いつも未来を志向していくんです。伸びていくんです。その伸びることの第一歩で、ある意味では過去を踏み台にして捨て去らねばならないこともある。だから「教科書を使わない授業」なんていう一般的な理解は、全く末梢的なものであって、使うとか使わないとかいったレベルでものを考えたのではだめ。子どもと一緒に伸びていこうというところから、単元学習の精神が出発したんだというふうに考えたほうがいいのではないか。
したがって、今後のあるべき実践家は、実践研究者でなければならぬ。この場合の実践研究者の語は、もちろん一息に読むべきであって、実践・研究・者じゃあない。
実践の研究の間に割れ目があって、たとえば、ある人は国文学のたいへん造詣の深い人であって、つまり研究者として立派である。しかし、単元学習と言われれば必ずしも首をたてにふることはできない、そういう人もおります。教材文を研究するという意味においては、非常に詳しく研究熱心だという人はおりますけれども、実践研究というのはそれではなしに、といっていわゆる指導法の技術に走った人という、そういう技術者でもありません。「実践研究という実践者」で我々はあるわけです。我々は実践研究者として一体として生きている、ということは、生徒に学び、生徒と一緒に伸びていくということにちがいありません。(後略)

教育的求道者としての大村はま先生をめぐって

本会会長 湊 吉正

拙稿(「大授業者―その仕事」大村はま『総合教育技術』小学館1990年4月号)は、倉澤栄吉、滑川道夫、野地潤家、橋本暢夫、吉田裕久、苅谷夏子の諸先生の論説等を参照・引用させていただきながら、まとめたものだ。Ⅰではまず、これに即して話を進める。
倉澤栄吉先生は、「単元学習の総合性はカリキュラムに基づくというよりもむしろ、生徒一人一人が人間だからといった方がよい。学習者を信頼し、彼らを上手・下手、出来る・出来ない、の意識におかないとき、つまり本気で勉強させたとき、どんな学習も総合的一体的となって生きてくる。単元になる。」と述べられている。大村はま先生の開発された単元学習の重要な特質も、そのスケールの大きな総合性に見出される。
大村はま先生の単元学習の生成・発展の過程の中で開拓されてきた指導法の主要なものにかかわる領域として、野地潤家先生は、書くこと・作文の学習指導のほかに、1話しあい・討議の学習指導 2古典に親しませる指導・古典の教材化 3読書生活指導 4漢字の学習指導 5語句語彙の学習指導 6「国語教室通信」の毎週の発行 7指導者自身の言語生活・言語行為の向上と深化への修練 8西尾実先生の“実践即研究”の生きた典型、
以上の8項目を挙げられている。
このような多様な領域での多彩な指導法の開拓を自然に促進させる大村国語単元学習について、ここでは特に二点をあげてみたい。
第一点は、大村はま先生の教育的構想力のスケールの大きさである。その点が端的に把握される三つの面について。
第一は、その授業がさまざまな時間的スケールの構想の重ね合わせの上に進められていること。第二は、その授業では、聞く・話す・読む・書く・内言・各種の非言語的活動が相互媒介的に相乗的効果を発揮し合うように配合され、それを通して重層的で多次元的な全体が構成されていること。第三は、国語の力の基礎的なものについては、いわば隠された反復によって確実に生徒に身につくように設計される一方、その発展的なものについては、そこで生徒自身が解決しなければならない一回的な場が設定されることによって、その授業の展開にダイナミックな文節性が導入されていること。
次に第二点としては、生徒の生活と心の把握の的確さをあげることができる。
大村はま先生の生活と思想は、今日でも生徒の生活と心へのアプローチで貫かれている。先生のまなざしは、生徒の身体内部への深い浸透力をもったものである。滑川先生は「『神の前に身を低くして』は、いうまでもなく大村先生の人生を内面から支えている生活の根である。その敬虔さのなかから、実践指導の『きびしさ』と『やさしさ』とが発現している。二つが渾然となって、湧く霧のように教室に流れて動く」と記されているが、 一方大村はま先生の石川台中時代の教え子の一人である苅谷夏子(旧姓前田)さんが、『固くならずに緊張する―大村先生に学んで』という一文の中で「『自由で自発的な精神』と『緊張』という、共存のむずかしい二つの課題が、私たちの教室では同時に目指され、それは未熟ながらも、文化という言葉を思いおこさせるような、そんな空気でした」と回想されているのも印象的である。
Ⅱでは、教育的求道者としての大村はま先生(1906~2005)の姿を浮かび上がらせる一つの方法として、ほぼ同時代に現代日本の社会の中を求道者として生き抜かれた三人の方々、神谷美恵子先生(1914~1979)、森有正先生(1911~1976)、須賀敦子先生(1929~1998)の生き方とを概略的に対比することを試みた。
①日本の現実社会をみつめ、そこに身を投じて誠実に生き抜き、献身的ともいうべき徹底した求道者としての道を歩まれたこと ②心の底からそのような献身的行為を促す壮大な思念を心の中に形成されていったこと ③行動の人、実践の人であったと同時に、類い希な表現者として書くことを通して人々にきわめて価値の高い宝物を送ってくださったこと。以上三点において、大村先生、神谷先生、森先生、須賀先生には求道者としての共通性が見出されるのではないかと考えた。
そして大村先生以外の三人の方々も教育に深く関わっておられたが、神谷先生は精神医学、森先生は哲学、須賀先生は文学とそれぞれ探求の道を歩まれたのに対し、大村先生が徹底して、しかもきわめて長きにわたり教育的求道者としての道を歩まれたことは、特筆すべきことと考える。

大村はま教室の「自己を育てる」教育の生成

元鳴門教育大学 本会理事 橋本 暢夫

大村はま先生の実践は、「人は一人では育たない。」「人はお互いにだれかを育てながら生きているものですし、なにより自分を育てながら生きているものです。」(「諏訪こそわが根」1958 講演)との人間観にたち、一人の日本人として民主社会を生きていく基本的な力を主体的な学習を通じて、学習者一人ひとりの身につけさせていこうとする「理念」のもとに営まれてきた。「理念」ゆえに、いつ、いかなる学習者に対しても、それぞれの個人差に応じて、創意・工夫のこらされた 学習の「実の場」が創りだされてきた。
先生は、一人ひとりの学習への意欲を喚起し、「学び方」を自得させ、自己を確立させ、個性を発揮させていかれた。大村単元学習においては、学習者一人ひとりに学習目標を達成させつつ、先生ご自身のなかでは広く深い識見のもと、国語学力・国語学習力が見通されていて、指導の目標、内容、評価が重層的に構造化され、螺旋状にたかめられてきた。

その淵源は、蘆田先生の「発動的学習態度の育成」の主張と、川島治子先生の捜真女学校における「自己を知る」教育にある。
蘆田恵之助先生は、はやく1916(大正5)年に、綴り方教授の帰着点は、児童(生徒)が文を書き得るに到ることにある。・・・ただし、「容易に持つことの出来ない ある物は、発動的学習の態度である」と記し、「綴り方教授の帰着点を、文がかけるといふ結果に求めるよりも、その根底たる発動的学習態度におくが至当であると思ふ。」と結論づけておられる。(雑誌「国語教育」第1巻11号 大正5年11月1日)
作業学習を通じて「発動的学習態度」-[自己学習力]-を育成する大村先生の実践は、1932(昭和7)年 秋からの「学習の記録」の指導に現れてくる。
生徒個々人が ①文章を集め・繰り返し読んで、学習の成果を確認すること[一年間の文の跡]、②「批正」の時間に級友の文章に学び・自己を見つめ、取材のしかた・内容の充実、文章の書きかたについて、自得していくようすが当時からの「学習の記録」に集積されている。
この学習記録に見られる蘆田先生の諏訪高女における示範授業(1934)については、[今井密子作文「昨日のこと」「ガラスふき」を含む]、「第7回大村はま記念国語教育の会」において報告を行った。(「自己を育てる」教育の系譜 福岡教育大学 2011)  (略)

生成期の大村はま教室の「自己を育てる」営みを今井密子さん・山口恵美子さんの「作文帖」を通してみていくと、題材を選ばせ、内容をもたせ、書きかたを会得させて記述させることによって、自己をみつめさせ、ことばを育てていかれたことが明らかである。さらに、川島治子先生モットーであった 個性に介入することがないよう絶えずこころが配られている。
今井さんは、「自分がしたことや見たことが、一番よく文に書ける」と自己評価するように、「てつ」を細やかに描写する一面、「銅貨六十銭」に、人間・社会を広くみつめ、誠実さ・正義感を発露させている。山口さんの「毛糸の靴下」には「山口さんでなくては書けない」やさしさが現れている。
こうした一人ひとりの持ち味を見抜き、個性を伸ばしていかれる配意が「作文帖・学習記録」の指導に随所に現れている。
あわせて、批正の時間に、級友に学び、[作品の音読やプリント]、学年・学期の目標に応じた細密な指導によって、蘆田恵之助先生が課題とされた「発動的学習態度」の育成がなされてきた。
生成期以来、大村教室においては、学習のプロセスが、そのまま、自己をみつめさせ、自己評価の眼を養い、ことばを育て、「自己を育てる」態度(自己学習力)の育成になっている。
*平成24年度 千葉大会での講演より

討議に参加する資格

筑波大学 本会常任理事 甲斐 雄一郎

『教えるということ』を読み返してあらためて感銘を受けたのは、大村先生が、子どもたちが「ひとりでもやりぬける人」であることと「人とかかわり合う」ことができる人であることとの高いレベルでの統一を理想としておられた、ということである。大村先生が最後に三学年を持ち上がった一九七二年度入学生は三年間で四七〇時間の国語の授業を経験しており、そのうちの八〇時間が発表・話し合いの時間にあてられている。その時間はいうまでもなく、人とかかわり合うことが求められるはずであるが、『教えるということ』中には次のような文言がある(「教師の仕事」中「職業意識に徹する」)。

これから討議などして、話し合いをしていく時に、自己の確立していない人たちの、寄りかかりあいになるのでしたら、そういう話し合いはおことわりだという気がします。人に寄りかかりあいながら、話をするのは討議ではない、自分の考えをもとうとしなくては、初めから討議に参加する資格が欠けているのだと思います。

子どもたちのための手引きにも、たとえば「人の世話をやかないでよい。友だちもひとりひとり、自分で考えて自分でする、自分でできる一人前の生徒である。むやみに世話をやくことは失礼である。友だちの『考える』力をつけるじゃまでもある」と記されている(『大村はま国語教室』一二巻、三一三頁)。そうであるならば八〇時間におよぶ発表・話し合いの時間については、先立つ準備の時間を子どもたちひとりひとりが「討議に参加する資格」の獲得にいたる道筋としてとらえることが必要になるだろう。そして子どもたちがその「資格」をどのようにして獲得したのか、ということ知ることもまた、大村はま国語教室に近づくためのひとつのてがかりとなるように思われる。

大村はまの『てびき』の諸相

本会事務局長  苅谷 夏子

「てびき」は、大村先生が最後に後輩に手渡したいと願っていたもの。大村国語教室の軸であった。
1,大村はまにとって「てびき」とは
「てびき」とは文字通り、こっちへ来てごらん、と手をとって引くこと。「そのつど、そのときのためだけ。どんな時でも使える万能のてびきなどは考えられない。」「てびきを作るのは、あの子に、この子に、と考えれば簡単だった。」「なまなましいところをわからせることが大事。」
2,大村はまの「てびき」の諸相
目的に注目して》
①単純に手順を示す指示を与える
②一人前の大人になるためのさまざまな力と知恵を、具体の場で手渡していく。課題にどこから着手するか、計画、手順、協力のしかた・・・
③ことばで考える人を育てるための働きかけ。ことばの空回りを阻止する。
④子どもが自力では引き出せないものへの戸口を示す。気づいていない価値そのものを示す。
⑤そういう世界もあるのか、と目を開かせる
世の中で「てびき」と称しているものは、大半が上記①か、あるいは「読解の授業をすすめていくための「問題」の羅列、テストと変わらないものも多い」と大村は言っていた。教える人が学ぶ人の目の前にいる、その良さを最大に活かす上で、てびきの多彩さは必然であったろう。
てびきを貫く重要な視線》
①単純な命令形でなく、子どもの思考に添い、考えを起動させることを目指した。日々繰り返される平凡な命令形や質問が、すでに教室での「着火力」を失っていることを軽視しないということ。
②気がつくと自然に目標に到達できるようなてびきの仕方。幼い頃のはまに母が「裾を持ちなさい」と言ったようなあり方。
③教師がその時々に手作りのてびきを示すことで、目の前の仕事に自力で対処していくために有効な道が、たいへん素朴に示された。素朴な手作り感と優れた知力の融合。
④実らない種は省く手助けをした。
レベルの高い学習が多かった教室で、安心と信頼のもとになっていたのが、てびきだった。

【 鳴門教育大学附属図書館  大村はま文庫について 】

徳島県鳴門市の鳴門教育大学附属図書館2階には、大村はま文庫があります。昭和の初めから約半世紀におよぶ大村はま教室の実践を物語る貴重な資料がここに集まっています。大村はま寄贈の約2000冊におよぶ生徒の学習記録、単元学習実践資料約500冊、文献6300冊などが、圧倒的な実践を伝えています。ぜひひたすらな教室のありさまをご覧ください。