大村はまのことば

国語教師 大村はまのことばを その著書の中から紹介します。
たとえば・・・

ことばを育てることは
こころを育てることである
人を育てることである
教育そのものである

本の扉へのサインに添えたことば

大村先生 009

国語教室が楽しくなければならないのは、楽しくない心は何も本気で考えられなくなりますし、何も覚えられなくなってなってしまうからではないでしょうか。…字一つ覚えそうもありません。…そのことを、素朴なことですが本気で考えたいと思います。

           『大村はま講演集 上 』風濤社 「子どもに楽しい国語教室を」冒頭より

「よく読んでごらん」と先生方はよくいいますが、その「よく読む」というのは、どんなことをすることなのでしょうか。「もっとよく読む」なんて、そんな読み方はありません。…

何のてびきもしないでいて、「子どもが中心」「子どもが自分で読むようにさせた」なんていうのはうそじゃないかと私は思っています。そう言わなければならないような雰囲気が教師の世界にありますので、そういうふうになるんですけれども。

本当に子どもが喜んで勉強するということは、どういうことか。こんなてびきによって、自分の心が動いてきて、何かをつかめたり何かを試みるその楽しみこそが、勉強の楽しみで、他に代えがたきものではないでしょうか。

『大村はま96歳の仕事』小学館より

黙っている時間が長い子もあれば、短い子もいまして、短い人が偉いというスピード競争のようになることはほんとうにまずいことです。(略)問いを出してからじいっと黙った時間があったりしては、教室にならないような気がして、先生はつい何か言ったり、考えを乱すような発言をするわけです。それが深く考えている子どもほど、(先生の発言が)じゃまになるのです。じっと考えようと思ったら、先生がいろんなことをちょこちょこ言うので、だんだんわからなくなるのです。

『大村はま講演集 下』風濤社 より

研究する、研修するということには、私たちがそうした力をみがくということだけでなく、もう一つ、たいせつな意味があります。それは、私たちが子どもたちと同じ天地にいるためのくふうの一つでもあります。研修はつらいし、やってもやっても急には効果が上がらないし、わかったような、わからないような、・・・さまざまな苦労があります。そしてまた、少しの喜びのあるものです。・・・自分を見つめたり、自分の到らないところを伸ばそうとしたり、それから高いものに憧れたり、一歩でも前進しようとしたりするということ、それはそのまま少年という育ち盛りの人たちのもった自然の姿なのです。子どもというのは、身のほども忘れて、伸びようとしたり、伸びたいと思っている人間です。・・・その子どもたちと同じ気持ちになることが、まず大事でしょう。

「教えるということ」より

 ことばは、生活のなかにほんとうにはまったのを見つけたとき、言うに言われないような快感があるのではないでしょうか。・・・ことばというのは、一つ身に付いたときに、ぱあっとどこか生活の一場面というか、人生の一場面というか、人間の一部分というのか、そういうところが開いていくような気がいたします。…ことばはたった一つですけれども、ほんとうにわかったというときには、私はたしかに心がそれだけ太ってくるし、また、おおげさな言い方をすれば、人生の一部がほんとうにわかっていくのではないだろうかと思います。…ことばはほんとうにそういう力のある、人間というものを開いて見せる窓というような気持ちがいたします。

「大村はまの国語教室 1」より

 いっしょに暮らしている教師ですから、さまざまあることに驚かない目で子どもたちをじっと見ていますと、ほんとうにひとりひとり、個人個人別の人であることがいまさらのように思われます。能力の育つ機会のとらえ方なども詳しくわかってきます。そういうふうに子どもをこまかく観察するというのでしょうか、こまかい気持ちの動きをよく捉えるということが、平凡ですけれどもまず第一です。授業といえば教えることに夢中になるのは当然ですけれども、自分の教えていることの反応といいますか、そういうことを細かくとらえることを授業と並んで仕事にしないと、なかなかとらえられないと思います。

 「大村はまの国語教室 2」より

 一生懸命やったことが、全部成功するなんて決まっていれば、この世の中は安心ですけれども、一生懸命やってだめなことって、いっぱいあるわけです。だのに、子どもに、一生懸命やればどんなことでもできる、なんてとんでもない人生観を、不幸になる人生観を植えつけていると思います。一生懸命やれるもの一つの才能じゃないか。(略)一生懸命やればどんなこともできる、あなたもできるようになるなんて、そういうことを言って子どもを悲しませないほうがいいんです。(略)出来不出来などということを頭に置かないで、ただただ力いっぱいやる。一生懸命やらせるところまでは、できるんじゃないか。私はそういうふうに思います。

「大村はま創造の世界」より

 教室には、非常に引き締まった気分を作る工夫をしないといけないと思っています。引き締まっているということ、固いのでも怖いのでもないのですけれども、きりっと引き締まっている、そういう気分をつくりたいと思いました。

「教室を生き生きと1」より

  型にはまったような同じことばで指示していますと、子どもは「読めと言っているなあ」という感じで耳に入れていて、その先生の心の底から出てきた迫力のようなものがひびいてこず、みんなを読みに引き込めないのです。そのことばに、いわば慣れっこになってしまっていて、読めと言ったなとは思いますが、「よし!」という気持ち、「さあ読むぞ!」という気持ちになれず、本気になって読み出さないということなのです。もちろん、どういう言い方をしても一生懸命に読み出す子どももいます。けれども、そうでない子どものほうが多いと思っていいのです。

「教室を生き生きと1」より

 たくさんの無駄をしなければ、やはり玉を拾うことはできない。でも考えれば、むだになったのではないのです。いいものを見つける背景として、それは必要だったのです。玉ばかりを見つけようとしても、玉ばかり落ちているということはちょっとないのです。あれこれの中にわずかに混じってあるわけです。

「大村はま講演集(下)」より

 本気になってうれしくなれるということも、育てることの一つの能力ですね。教師というのは、やはりそういうものではないかと思うのです。腹の底からの、本気な喜びが相手を圧倒するといえるでしょうか、それが人を奮起させるのだと思います。・・・「真実のことば」であり「ことばの真実」の力強さだと思います。

「大村はまの国語教室 3 学ぶということ」より

 本はだいたい一遍しか読まないものなのです。めったに二遍も三遍も読まないでしょう。何遍も読ませたかったら、それだけの流れ、必然の場が用意されなければ。

「大村はま講演集(下)」より

 要旨を取らせるという場合、この文章の要旨は何かを聞くというのではなくて、要旨を取る必要のある、また要旨を取らなければできない作業を考える、というのが大事なのではないかと思います。目標を生で生徒にぶっつけないということです。…生徒はその作業をいっしょうけんめいやっていけば自然に目標にかなってしまう、この道からもあの道からも登っていくことができた峰だというふうにやりたい。

「国語教室の実際」より

 「よく読んでごらん」と先生方はよく言いますが、その「よく読む」というのは、どんなことをすることなのでしょうか。「もっとよく読む」なんて、そんな読み方はありません

「大村はま96歳の仕事」より

 文学の鑑賞とか味わうということは、程度の高い心の世界ですから、兼ねて表現力も養うというのはちょっと無理。表現力は大事ですけれど、別の機会と計画を用意して、それを養いたいと思います。その力を見る目が混乱しますと、子どもたちは不幸せです。

「教室をいきいきと 1」より

 文学、このよきものは優等生だけが味わうべきものではないのです。「どんな場面が目に浮かびますか」などと問いを出して、この場面を口でうまく言える人だけが味わうものじゃない。できる子もできない子もない。作者の文章が、理解できてもできなくても、そんなことに関係のない力で人間というものをつかまえるのです。

「大村はま講演集 (上)」より

 書くということは一般の人間にとりましては、心の中を文字にする技術なのです。…うまい文章の書ける人なんかそうたくさんいるものではない。そしていなくてもかまわないのです。自分の心を文字化することができたら、生きる技術としての書く力は育ったといえるのではないでしょうか。

「大村はま講演集 (上)」より

 いい作品、おとながほれぼれするような作品ができるか、できないかということについては、私はたいへんとおおらかに考えていまして、気にいたしませんでした。人間の成長がないところには文章の伸びはないということも考えますし、そんなに文章の上手な人はたくさんいないものだということも考えます。また、学習はいっしょにやっていますが、その結果が見られる時期は、じつにまちまちであることも考えます。結果、効果、…私がそういうことを気にしたら、子どもはどんなに不幸せかと思うのです。もっともっと書く力というものは、根本に培われていくべきもの、そして、その人の上手・下手ということとかかわりない世界で根深く、根強く、成長するものと思うのです。

「大村はまの国語教室 2 さまざまのくふう」より

 どんな考えでも、たとい、よい考えと思わなくても、これかなと心に出てきたことは、どんどん書いて、字で書かれた「目に見えるもの」にしていくといいのです。すると頭の中だけで、あれこれ思いくらべていた間とは違って、だんだん、光がさしこんでくるように、いろいろな考えの区別がついてきます。…ふしぎに結論が出てくるものです。

「やさしい国語教室」より

 中学生というのは小学生と違って、あまりつまらないことは書く気にならない。書く価値ありと思わないと書かないと思います。くだらないことをくどくど書いて、「先生、できました」と出す気になれない。なかなか頼もしいことだと思います。

「大村はま講演集(上)」より

  今の時代に、国語の先生で話し合いをやらせない先生なんていません。なんでも話し合ってごらんということになっているでしょう。でもいけないのは、話し合いを教えていないということ。(略)話し合いというものをちゃんと理解して、あるべき形を心がけて勉強している子どもはいないわけです。(略)
話し合いの前にはまず教材を用意する。その教材をもとにして準備時間というものを持ちます。ある問題が出てきて、即席で心を通じ合うような話し合いができるなんて、そんな日本人はいないですよ。黙っていることが一番いいことだった時代を長く経た日本人はそういうことはできないです。だからしっかり準備するんです。話し合うことはない、言いたいことはない、と言う人が話し合いの席にいたらはじめから話にならない。言いたくてしょうがないことが胸の中にあるようにしないと。それが準備時間ですね。(略)
先生が子どもの数ほど意見が持てることも大事ね。必ず教師自身が、皆の中に入って賛成したり反対したり、その話し合いに入れるようにする。子どもだけに任せて子どもに司会させて、教師は見物していて、もっとしっかり発言せよなんていうのは、教えていることにならないと思います。

「教えることの復権」より

メモしなくて忘れてしまったらそれでいい。忘れていいようなことだったのではないかしら。それよりそのときどきの話をちゃんと受け取って、忘れるも忘れないもないというくらい、身に染み入ったようにして聞くことだと思っていました。

「教えることの復権」より

みんなが、作文が書けない、書けないという最大の原因は、書くことがないことでしょう。これが書きたい、ということがある場合、それをほんとうに書けないということは、珍しいと言えると思います。おとなだってそうです。

『大村はま国語教室 第六巻』より

無我夢中で飛びついて、あらん限りのその時の力でなんとかした、それが工夫の誕生の姿でした。工夫というのは、そういうものなのではないかと思います。

 『授業を創る』より

子どもたちに、安易に、だれでもやれる、やればやれるといいたくない。やってもできないことがある―それも、かなりあることを、ひしと胸にして、やっても、やってもできない悲しみを越えて、なお、やってやって、やまない人にしたいと思う。

大村はま国語教室の会会報『はまかぜ』より

何か新しいものに向かって確実に頭を上げて立ち向かうという、そういった姿勢、それをしなくても何とかすむかもしれないのに、しかしやってみたい、試みてみたい、前進してみたい、そういうような気持ち、何かを切り開いていきたいという気持ち、そういうものが自分の中に伝わっているのを感じるのです。

『学びひたりて』より

ちょっとした小言が言いたくても、題をつけたり、構成は一応練っております。ことばをいかにやさしくしても、構成の悪い話というのは、子どもにはわかりません。ですから、話し出しのくふうと、組み立て、おしまい、そういうことは気をつけて、案を立てて話をします。それを教える教師なのですから、その覚悟は大切だと思っているのです。

『大村はまの国語教室 1』より

本当に恐れていなければならないのは子どもたちです。話の順序が悪かったりすると、きっと見ているんですね、その子たちが。こわいけれど、きらきらとした目で私を見るんです。そういう優れた子どもたちがいるんです。

『自伝 日本一先生は語る』 より

話そうとする意欲、それを湧きたたせることができなければ、「大きな声で」と言われても元気が出ないと思います。…声が小さいからと叱るのはやめたい。

『教室をいきいきと 1 』より

とにかく、いちばん心がけているのは、ゆたかな話題の持ち主になるということです。自分でもおもしろくて、話したいような話をいつもたくさんもっている、話題で胸をふくらませているというのでしょうか、そういうふうでありたいと思っております。・・・本はもちろん、新聞の各地方の話題の欄など、気をつけておりました。適切な話というのは、そうないものです。自分の興が乗らない話というのは、やはり使えませんでした。

『大村はまの国語教室 3』より

自分のしたことを自分で「一生けんめいやりました」と言うものではないことを、一年の最初から教えていた。…他の人の批判を封じるような言い方であり、甘えた言い方である。…そのうちに、この言い方は、そんなにきびしく考えなくてもいいのではないかという声が出てきた。しかし私は、このことばを大切にしたいと言い、ほんとうに一生けんめいになることのむずかしさを言い、また、ほんとうに一生けんめいになっているときは、一生けんめいになっていると思わないものだ、意識しないものだと言ってゆずらなかった。

『大村はま国語教室 第6巻』より

見たことを忘れないようにメモしておく、それはもちろんよいことですが、あまり、書くことのほうに力を入れ過ぎないように、というのが、私の忠告です。なにより、見ること、感じることがたいせつだということは、わかっているでしょう。せっかくその場に行ったのですから、よく見、よく聞く。細かいことだけでなく、全体の持っている、あるいは、全体を流れているもの、それを、からだじゅうで、受け取る、感じ取ることが第一だと思います。

『続 やさしい国語教室』より

よく聞いていなくても、何度でも言ってもらえたのは子ども、―おとなは一度で聞くもの―と言って、しばらくだまっていますと、雰囲気が締まってくるのがわかります。この雰囲気のなかで、一っぺんでわかる話をしなければならない自分に実はおののいていたのです。

『大村はまの国語教室 2』より

一度でわかる話…ほんとうは、一度で言っていないのです。ほかのことばで繰り返しています。二度言ったとは気が付かれないように。一年の初めなどは、だいたい、二度か三度は言っています。きびしく、一ぺんで聞くようにと言いながらこうした心づかいが必要です。それがありませんと、なんといってもまだいたいけな中学一年生ですから、あまりに緊張したり、聞き損じのある自分が寂しくなったりします。

『大村はまの国語教室 2』より

二度言ったなと気がつかれるような失敗はしないというつもりです。ちょっとしたくふうとしては、同じ場所に、同じ姿勢で立って話さないということです。位置、向きを変え、話す調子を変えることもあります。ことば、それから文脈、文型の変化はもちろん精いっぱい心がけます。

『大村はまの国語教室2』より

「話は一度で聞くこと」をモットーにしているとき、絶対に言ってはいけないことばは、「さっき言ったじゃないか」、そして、忘れてならないことは、自分が一度でわからない話をすることがあるにちがいないということだと思います。

『大村はまの国語教室 2』より

まず、育てたい力の基本となるところの頭のはたらきは、どんなことかをとらえ、そのような頭のはたらきをさせる仕事はないか、というふうに考えていきますと、表面は、ちょっと見には関係ないようなことでも、頭のはたらかせ方は同じものがいろいろ見つかります。

『大村はま講演集 上』より

子どもをかわいいと言うのでしたら、子どもが一人で生きていくときに泣くことのないようにしてやりたいと思います。今のうちなら、たとい勉強が苦しくて泣いたってかまわないのですが、いちばん大事なときに泣かないようにしてやりたいと思います。

『大村はま講演集 上』より

思わず緊張して聞けるような話を聞かせること、じつにむずかしいけれども、これなしに聞く耳は育たないだろうと思っているのです。

『大村はまの国語教室1』

あなたの身につけたような力は、もう捨てようとしても捨てられないような、それ自身生きていくような。確かなものであるとも思います。しらずしらず、あなたの力になって、しあわせを生む、ひとつのものになっていくにちがいないと思います。

(生徒の学習記録へのコメント)

やっぱりいろいろなことをやらせてみなければ、いろいろな子どもたちをとらえることができません。その子の長所とか特色とかが現れるような場面のなかで見てやらないと、その子はとらえられないだろうと思うんです。同じものをやらせて、そこから出てくる違いから見える個性なんていうのは、本当にちょっとしたものにすぎないように思います。

『自伝「日本一先生」は語る』より

まだ子どもであることをじゅうぶんに心におきつつ、同時に、かれらはどんなに子ども扱いにされたくないか、どんなにおとなに扱ってほしいかを考えて、やさしく、しかし、思わずまじめに取り組ませるような、安易でない感じを持たせて出発させたい。

『大村はま国語教室 第10巻』より

話されたり聞かれたり、読まれたり書かれたりしながら。国語教室の中で、教室の一隅に、真剣な一対一の話がなければならない。・・・そういう場面を設けることは、非常にむずかしいと思います。うっかりしておりますと、話しているのは一対一でも、みなの前で演じているということになってしまうような気がするのです。

『大村はま国語教室 第2巻』より

ことばをみがき、こころをみがく ・・・「みがく」ということは、そのものを大切にし、そのものに愛情を持っていることですね。どうぞ、ことばを大切にし、ことばへの愛情をもちつづけていってください。・・・ことばを、そのはしばしまで正しく使うことでしょう。どんな小さい傷もつけないように使うことでしょう。そして、ゆたかに使いこなして、もし、ことばに、人間のような心があったら、自分は役立っているなと感じさせることでしょう。

『続 やさしい国語教室』より

実際の社会的な技術として、どんなに気の合わない人とでも話し合っていくだけの、そういう力を持つこととか、それからだれにも自分の話をわかってもらう技術を練るとか、いろんな目当てを達成するためにも、グループはたいせつなものだと思います。

『国語教室の実際』より

話している人が言っていることを聞きながら、自分の考えと考え合わせて、いっしょにして考えている目つき、これを覚えないといけないのです。うけたまわりおくといった冷たい言い方があるでしょう。そういう顔じゃだめですね。それが、胸にこう入ってきて、共鳴して、受けとっているときの目つき、これは、その気になってご覧になるとわかります。

『大村はま国語教室の実際』より

話し合うというときの活発な頭のなか…はつらつと動かされている頭というのが、話し合っている内容以上に、じつに意外なことを自分自身に悟らせるということなのです。…自己が開発されるというのでしょうか、その力はびっくりするようなものだと思います。話しことばというものの世界に、どういう自己開発の瞬間があるかということを悟らせたいと思います。生きた人と生きた人がとが、貴重な生命の一こまを使って打ち合っているそのとき、何が起こるのかということを、私は悟らせたい。

『大村はまの国語教室 1』より

話し合いをしていく時に、自己の確立していない人たちの、寄りかかりあいになるのでしたら、そういう話し合いはおことわりだという気がします。

『大村はま講演集 上』より

率直にものを言えば損をしたり、言いそこなえばすぐに嘲笑されたりするようなクラスの雰囲気の中では、ことばは育てられない。すなわち、ことばの問題は、ただちに人間や社会の問題につながっていることを深く自覚させたい。ことばをうまくあやつる―そういう技術の問題としてのみ、ことばを考えさせないようにしたいものである。

『大村はま国語教室 第10巻』より

生徒の、子どもたちの―おとなもそうでしょうね―いちばんきらいなのは、マンネリということでしょう。おとなですと、何度聞いても、礼儀ということもありますから聞いていますけれど、子どもたちというのはそうではなくて、その代わり新鮮な話なら、とにかくこっちを向きますね。

『大村はまの国語教室 1』より

平常の、聞いたり、話したり、読んだり、書いたりするのに事欠かない、何の抵抗もなしに、それらの力を活用していけるように指導できていたら、それが私が子どもに捧げた最大の愛情だと思います。そのほかのことは、後になってみれば、うれしかった思い出にすぎません。

『教えるということ』より

おもしろくない話に集中することは、人間としてむずかしいことです。ましてや未熟者の子どもたちが、つまらない話や何度も聞いた話を集中して聞くといった芸当ができると思うのは、人間への誤解だと私は思います。

『大村はま講演集 上』より

本気な話をする場があるから、いくらばか話をしても、いくら酔って歌ったりしても楽しいですけれども、そういうものがなくて、飲むのと歌うのだけしかない交わりというのは、私はどうもほんものにならないと思います。くだけるということは、くだけない場面があるから、くだけたときが楽しいので、年じゅうくだけることしかないというのだったら、私は自分としては、ほんとうのいいお友だちにはならないと思います。

『大村はまの国語教室 3』より

平凡な生活は平凡に頭に映って来るんだと思います。その平凡の中に、目を見開いてよく気をつけていれば、非凡なものをさがせるものだ、などということは、子どもには本当にかわいそうです。・・・ですから、一生懸命拾ってみせ、取材してみせ、書くときの材料は思い切って手伝おうと思ったのです。

『授業を創る』より

生徒の間を回ることにうよって、生徒の個性を傷つけるとよく言いますが、ほんとうに個性が傷つきますか。証拠がありますか。そんなことで失われる個性なんてあるんでしょうか。・・・一つの特殊な才能のようなものは、私たち教師が三年や五年いじくったからといって、「有るもの」ならなくなりはしないでしょう。「ないもの」なら、生まれてはこないでしょう。ほとんどの人は、天才なんかではありません。先生の教えを心から待っているんです。子どもですから、口に出して言わないだけの話です。

『新編 教えるということ』より

「わかりましたか」と聞くときの教師自身が、子どもにほんとうの真剣な答えを期待していないという自分への甘さがあるのではないかと思います。「何もわかりません」と言われたら、どういう顔をするつもりでしょう。さぞびっくりするでしょう。それくらい自分はあまったるいのだということを考えるわけです。ですから私は「わかりましたか」ということばを口から出すまいと思って、指をしばっていたことがあります。…そうすれば少しは言わなくなると思って、鍛えていた日々もあります。

『教えるということ』より

先生が「そこ何してるんですか」…とかおっしゃいます。言うのはともかくとして、なんとなく私自身の実感から言いますと、こちらの気休めのような気がするのです。…「よく聞きなさい」と言ったら、よく聞くと思うのは、先生の甘いところなのではないか。…「よく聞きなさい」などと言うのを自分では恥のように思っています。そういわなければ、聞かせられないのかと、つらいのです。

『大村はまの国語教室 1』より

ていねいなことばは、よそよそしい感じではないか、という話が出た。…しかし、荒いことばでなくては、心の触れあいができないとは思わない、日本語はそんな貧しいことばだとは思わないと私は言った。…やはり国語の教師として、最も適切な正しいことばづかいをしていきたい、それが皆さんとの親しみを傷つけるとは思えないと言った。

『大村はま国語教室 第六巻』より

てびきというのは、(問題集とは違って)もっともっとあたたかな、もっともっと変化に富んだ、わくわくしてくるようなもの。…わかるわからないではなくて、自分の心のなかにある答えを汲みだしてくるとでも言ったらいいでしょうか。

『学びひたりて』より

子どもはちょっとしたことで面白くなったりしますが、魂は本当には満足していないことがいくらでもあります。また、先生に面白かったか、つまらなかったかと聞かれても、だいたい中学生くらいでは、先生にこの単元はたいへんつまらないと思いました、といってくる元気な子どもはあまりいません。私の子どもの中には、そういう勇敢な、率直にそういうことを突いてくる子どもがありました。でもなかなかそういう子に育てられません。ふつうは、子どもは、自分が単元によって充実したかどうか、ほんとうには、自分ではわからないのです。ですから、聞いても仕方がありません。

『大村はま講演集 下』より

しかられた、ほめられただけがすぐわかるのは、「考える」ことをあまりさせない指導で、やはりつたないのではないかと思います。「ばか」なんてどなるのは、すぐ怒られたとわかるから、ああいうのは下手なんだなといつも思います。なにも考えさせないのですから。

『大村はまの国語教室 3』より

(試験と学力について) はかることと、ふやすことと、それはたいへん違うことなのに、同じことかと思っている人があるようです。今ここに、それではお砂糖があることにしましょうか、それをはかります。はかっていると、どんどんふえてくる・・・そんなばかなことはありませんね。

『教室をいきいきと 1』より

とにかく子どもは、不公平、差別、そういうことを、時に唖然とするほど異常なほど気にするのです。その幼さに対して、いくら気をつけても気をつけすぎることはありません。

『教室をいきいきと 2』より

長い間、興味をもっていて、その興味が子どもに移っていったような感じです。子どもの興味が私の興味になったり、私のものが子どもの興味になったりして、どっちがどっちということはない、単元は両方の興味に支えられていくという気がいたします。

『大村はまの国語教室 3』より

たくさんの生徒が一度に聞いているような場合には、その中のだれかが何かをわかったり、心を打たれたり、何かを受け止めたりするだけであると、私は覚悟しています。何人かが逸れることはあっても、中に必ずわかる子どももいました。それを信じて話していくしかないと思います。

『大村はま講演集 上』

1,「聞きかじったこと」…こういうことを、自分で考えたこと、自分の考えそのものと、勘違いしないこと。4,大きなことを言わない。こんなことばづかいは、あぶない。「人は…」「人間というものは…」「だれでも…」「おとなは…」「世の中は…」「人生は…」5,目はなるべく、自分の身のまわりに。自分内に。自分で知ったことに。6,事実をもとにして考え、考えたらまた事実にもどる。7、「ほんとうに、こう思っているんですね」「そうです」こう言えればいいんです。案外、ひとりでペンが走って、書いてしまっていることがある。

「忙しい」と言うことは子どもへは禁句でありまして、私は大人に向かってもどんなことがあっても「忙しいから」と言わないほうがいい、そう心得ています。「忙しい」ということは、とにかくひとが聞いたら寂しいことなのです。なんかしょんぼりしますね。どうぞ皆さん、忙しさに負けないで・・・

「大村はま講演集 上」より

中学校では、用のある話、大事な骨のある話、そういう話ができないと、私は国語教室で目標とする国語の力とはいわないと思っているのです。

「大村はまの国語教室 2」より

 (戦後「やさしいことばで」の教材を学習したときのこと)これからの日本は文化国家として生きかえっていくほかないのだ。それには、いろいろのむずかしいことのわかった人が、そういう学問をして、みんなに、ほんとうにわかりやすく話したり書いたりしてくれなければならない。

大村はま国語教室の会会報「はまゆう」より

てびきは、子どもの学習活動を掘りおこすエネルギーのもと、というふうに言ってもよいときもあります。子どもたちがどこから手をつけていいかわからないというような状態になっているときに、ちょうどよいヒント、それが一挙に学習意欲を燃えあがらせ、活発な学習活動に入らせる、というようなこともあります。決して教師の発問のさまざまな種類を集めたふうのものではありません。

『大村はま講演集 下』より

こういう問題ができないといけないから、こういうことがいるから、といって、そればかりをつついていることが、果たしてほんとうにその力をつけることになるのかどうかと思います。

 『大村はま講演集 上』より